阪急ブレーブスの思い出2 福本 豊

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阪急ブレーブスの選手では1番目は何と言っても、私にとっては福本豊さんである。

確か、始めの観戦は小学4,5年生頃、福本さんは30歳であったと記憶している。

場内アナウンスの”1番 センター 福本” は今でもその響きが残っている。

京都の西京極球場で試合のとき、福本さんに帽子にサインをもらったことを覚えている。

ツバの裏にサインをしてもらおうとして、渡したところ、表にサインをした。

今から考えれば、失礼なことをしたのかもしれない。

実物は小柄でありながら、どっしりした下半身で、上半身も筋肉質に見えた。

当時は2番か3番に蓑田が定着し、主軸は加藤、マルカーノ、ウィリアムス、島谷だった。

福本が塁に出ると、打者よりも福本の盗塁に目が行き、守備にも注目していた。長打力は重たいバット(確か 南海の藤原モデル)でヒットを量産していた。

盗塁は1,065個、1972年には年間106個を記録している。この記録は日本球界で今後、誰も破ることのできない記録であろう。

でも、福本さんはチームでも決して足が速い方ではなかったようだ。盗塁の技術を磨いただけでなく、けん制のうまい投手を徹底的に研究した賜物である。近鉄の神部投手のわずか2㎜ぐらいの足の動きの違いから投球かけん制を見破っていた。

晩年、ある記録がかかった近鉄戦、ランナー1,3塁、1塁が福本さん、キャッチャーの梨田(現 楽天監督)は福本さんに”どうぞ 2塁へ”と合図を送っていたこともあった。

スパイクはカンガルーの皮で作った超軽量、球団はPRのため福本さんの足に1億円の保険をかけていた。しかし、小柄であっても、日ごろのトレーニング、体調管理をしていたこともあり、大けがもなく、引退している。

大阪の大鉄高校時代、甲子園に出場後、松下電器(現パナソニック)で社会人野球選手となる。1つ下に加藤秀司(のち、英司)がいたため、スカウトが見に来ていて福本さんに目が留まった。ドラフトでは1位が山田久志、2位加藤 福本さんは7位であった。

ところが、今のようにネットもない時代、福本さんは翌日職場の新聞を読んでいた同僚からドラフト指名を知ったのである。また、奥さんは野球のことを全く知らず、松下から阪急に転職したとだけ伝えていて、奥さんが阪急の駅を見回っていても福本さんを見ないので阪急電鉄の方に聞いたところ、”もしや、あなたの探しているのは盗塁王の福本では?”と言われて初めて知ったと言う逸話もある。

1,065個の盗塁、国民栄誉賞の話もあったそうであるが、”そんなもん、もろたら立ちションできなくなる”と言って辞退したとも言われている。今からでも遅くありません。福本さんに国民栄誉賞をお願いします。

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